おはこんばんは、おばサラです。
昨夜から何をするにも怠くて腰が重く、
朝の運動タイム(エアロバイク)もぎりぎりクリア。
このままでは仕事にも影響必須。
立て直すべく、ここまでの振り返りをしてみたところ
昨夜の読書タイム→twitter流し読み
そのまま眠くなり早めに就寝。
むむ、twitterをうっかり開けてしまったことが原因か?
でも、「他人の意見を聞く(世界にはいる)」という意味では読書もtwitterも同じ気が。
なぜ読書は夜にお勧めされやすく、twitter流し読みは避けることを推奨されやすいのか?
情報処理量などいろいろと論点はあるかと思うのですが、
昨日の自分を振り返ると
「twitterを流し読みしている時の気分」は「ぼっちで居酒屋の時の気分」に似ている気がしてきました。
いろいろな理由で発生する「ぼっちで居酒屋」
待ち合わせしているけど、相手が予想外に遅くなった時
相手が中座が予想外にながいとき
大勢できているんだけど、話題グループがわかれたのにどのグループにも入り損ねた時
周囲のお話がいろいろ聞こえる。興味深い話もある。
でも、自分は話題のグループにはいることなく聞いてるだけ。
前後の状況は思い出せないのに感情だけが思い出せる、ということは、相当なんでしょう。
twitterをみている瞬間は話題を追っているので強く感じませんが、結果読書と違う疲れがたまるのは、自分の場合はそこなのかな、と思います。
さて、なんでkindle端末でなくtwitterをついつい眺めてしまうのか。
読書は「自分が作り出す時間」、twitterは「入れば展開されている時間という状態、つまり「独りでいることを感じづらい空間」なのかな、と想像します。
つまるところ、自分はちょっと寂しくて人恋しかったのかな、と。
思い返すと、昨日のお昼は二つの寂しい出来事がありました。
・本音で話したかった人と、表面的な話しかできなかった。
(相手の防衛波動が強かった気がして臆してごまかしてしまった)
・所属していたコミュニティのひとつがなくなってしまうことが決定した
(自分の関わりも良くない状態のままだったので反省点多し)
それらについては、今も自分の気持ちの着地ができていないままです。
その寂しさをtwitterの楽しい話題をみることでまぎらわせたかったのかもしれません。
今日は落ち着いて向き合い、自分の気持ちを着地させたいと思います。