おはこんばんは、おばサラです。
Google Discoverのお勧めに出てきた記事から、在宅介護にまつわるシリーズコラムを読み耽ってしまいました。
現在ありがたいことに親は自活できる状態で、認知症の兆候もありません。
介護については基本的に施設を利用する方針であることを決めています。
ですが、思わぬタイミングで思わぬ形で降りかかるのが介護。
特に若年性認知症によるご兄弟の介護などは、親の介護と違って本人も周囲も予想もできないことだけに、ご苦労も一入だろうと、そして自分にもいつ訪れるかわからない当事者事である、と思いながら読みました。
以前にセミナーで介護認定を受けるまでの一連の流れを受講したことがありますが、本当に紙面で読んでいるだけではわからない情報ばかりでした。
今回も読んでいけばいくほど、「そんなことが」と思う事ばかりでした。
遥か昔の育児の時の体験も思い出しましたが、よく「育児は未来に向かう苦労だが、介護は未来が見えない苦労だけに、ストレスが違う」という言葉で象徴されるものがあるのでしょう。
特に「言葉が通じないことを自覚していない大人」というのは自分の期待感とのギャップが大きく、また、家族という「他人には持たない感情的な期待」もプラスされるため、きっとその落差によるストレスは並々ならぬものかと思います。
また、シリーズを読んでいて感じたのは「日常の大切さ」です。
遠距離介護のお話は、もともとご本人がしっかりとした生活リズムがあり、「するべき」と感じる様々なことをしっかりと認識されていることによりうまくいっているように感じます。逆にそこか何等かの拍子で崩れてしまうと、悪循環にはいり崩壊してしまうポイントでもある。
自分もこの年になり「記憶の劣化」を強く感じます。
やろうと思っていたことが少し歩いただけですっぽ抜けてしまったり、なんてことは日常です。
定年後の準備にはついつい仕事・経済に関することだけを意識していましたが、
「日常」というリズムを「仕事とそれ以外」というレベルでなく、きちんと仕事なしでも成立できるように作る、というのも大事なことなんだ、と実感しました。
そして「認知症」という病独特の辛さを改めて実感しました。
早く療法が確率・普及することを願うばかりです。